私は会話がはずんで、むかし話になったとき、「東京オリンピックがあったころはね……」と、その時代にさかのぼることがおおい。私のように昭和二十年前後に生まれたものは、そのころが青春のまっただなかで、ぎっしり思い出がつまっているからである。
ところが、ときにきょとんとした顔をされることがある。話し相手が四十代歳前半の人なら、小さすぎて東京オリンピックの記憶はないだろう、「へえ、そうですか」と不思議な顔をされる。
近ごろ、昭和の三十年前後のことが見直されて、そのころのレトロな風景が再現されているものを写真などでよく見かけることがある。
東京オリンピックが開催されたのが昭和三十九年十月十日のこと。この大イベントを目ざして日本は激変していった。戦後の私たち日本人の生活の大きな分岐点であったといってもいいだろう。
その少し前、私が小学生の昭和三十年代前半を思い返すと、モノが今日のように豊かでなく、不便な生活を強いられていたが、なにか心地いい毎日だったような気がしてならないのである。
私の住んでいた家は、弁柄格子の小さな長屋だったが、玄関から奥までたたきの土間が続いていて、台所にはまだ竈(かまど)があった。
夕刻になると、祖母はそこに薪をくべて羽釜に重い木の蓋を置いてご飯を炊いていた。調理するのも、その熾で炭をいこして、いまの季節ならば骨切りをしてもらった鱧を金串にさして、醤油と味醂とを自分で調合したタレをつけては火にかざしていた。みずみずしい濃い青紫の茄子なども金網にのせて、皮は黒コゲにして焼き茄子をつくっていた。
冷蔵庫は、夏の三カ月ほどだけで、毎朝氷屋が運んできた大きな氷のかたまりを上部に入れて、下の空間にスイカや桃などが冷やされていた。野菜などを大量に貯えることはできなかったし、畑から朝採ったものをお百姓さんが売りにきて、それを毎日必要な分だけ買うわけだから、そのような必要もなかったのである。
スーパーマーケットもなかったし、祖母などは京都の近郊のものでないものを「レールもの」、すなわち列車で運ばれるものだから日時がたっていて美味しくないと言い切っていた。
私は、とかく食に関する関心が強すぎるから、このような子どものころの食べものの思い出を記しているわけであるが、右のような食材の調達やや調理法は今日から見れば贅沢なことのように見えるのである。
だからだろうか、最近は竈で炊いたご飯や、朝、畑や野山で採った野菜を出し、それを炭火で焼いて食べるということは、特別な料理屋さんの仕事になっていて、そんな店に人気が集まりなかなか予約がとれないと聞く。
「三種の神器」といった便利な電化製品や車はとっくに手に入れて、冷暖房の効いたオフィスに勤務する生活。
それを享受しているいまの中高年世代が、昭和三十年代の食生活をなつかしむのは、竈の火やそこから煙がのぼる光景に郷愁をおぼえるとともに、そこに人間の本来の営みがあると認識しているからではないだろうか。
「京都新聞」平成16年6月30日掲載より