新しい世紀をむかえたあたりから、日本を掘る、日本の歴史と文化をもう一度探って見なおそう、という風潮がかなり高まってきているように思う。
わが国は、長い鎖国の時代があり、それが解かれて明治時代になってからというもの、西洋の文明が怒涛のように流入して、近代化がはかられてきたが、その一方で、日本古来のよいものがたくさん失われた感がある。とくに第二次世界大戦後に加速された。
「和を尊ぶ」という風潮は、あらためて日本という国が、地球上のどの位置にあり、その自然風土がどのように培われ、文化文明がいかに構築されたかを知り、こんにちの姿を見極め、失われたものを毎日の生活にも生かしていこうという動きである。いいことである。
ただ、このような流れそのものは歓迎すべきことではあるが、それがあまりにも性急であること、とらえ方がきわめて一元的であることも否めない。
たとえば、私は仕事柄、色に関する質問をよく受ける。「藍は日本人の色ですね」という感嘆が発せられる。たしかに明治のはじめに来日したある外国人は、街を歩いている日本人が一様に藍染の衣服を着ているのを眼にして、それを「ジャパン・ブルー」と表現している。江戸時代に木綿が普及して、各地に紺屋ができたため、藍染がよくおこなわれたからである。だが、これは日本だけのことではない。藍染は世界各地でおこなわれ、身分の上下なく親しまれた色である。ジーンズの色からも、それは納得していただけると思う。
ひとくちに藍といっても千草のごとくで、日本のなかでも、平安時代の人びとが認識していた「藍色」は、少し黄味がかった緑系の色であったことが、文献からも読み取れる。時代により、人びとの色に対する感性が少しずつ異なるのである。
これから梅や桜の花だよりを聞くことが多いが、淡い紅の桜の花を、「ピンク」と表現されたりすると、がっかりしてしまう。英語のピンクは「撫子」「石竹」のことである。
「禅」=「ZEN」という文字もよく眼にする。これは、欧米からの逆輸入の言葉で、彼らは日本の文化を一語で簡潔に表現するには、これが最適だと考えたのであろう。ある種の流行語になってしまっている。
「禅」とは、仏教に基づくもので、それが中国で発展し、日本へは鎌倉時代にもたらされて、たしかに文化の形成に大きな影響を与えたものであるが、これが日本のすべてではないことは、誰でも知っていることである。それを、欧米で使われたからといって、いとも簡単に使ってしまうのはどうだろう。
「和」という言葉のなかには、うまく釣り合いがとれているという意味も含まれている。言葉も選んで、調和がとれていることを尊ぶようにしたいものである。
(この文章は、京都新聞に掲載されたものになります。)