胡桃 (くるみ)
今年の夏の、とくに8月の酷暑、9月の残暑は格別であったが、ようやく10月も半ばをすぎて、秋らしい日が続くようになってきた。
それでも自然は確実に季節を刻んでいるようで、父の代から染料になる植物が植えられている私の染色工房の庭では、クルミの実が熟している。
客人を迎える南に面した部屋の前のテラスのトタン屋根に、クルミの実が落ちてきて大きな音をたてると、客人はその音に驚いて、「なんの音ですか」と訊ねる。「クルミの実が落ちた音ですよ」と私は笑う。1、2時間滞在する客人にはその音が幾度も聞こえて気になる様子なので、しまいに私が外に出てその実を拾ってきてお見せすることになる。
店などで売られているクルミは、薄茶色の硬い鬼皮で包まれているが、枝についているときは、青い偽果に包まれている。
落ちた実を掌にのせると、産毛が生えた皮から粘り気のある液がにじみ出てくる。その液は、植物が含んでいるタンニン酸が実を保護するために集まってきているためで、瞬く間に茶色の液が掌につくのである。
クルミは、茶や黒の格好の染料になる。クルミの実を拾い集め、さらに木の細い枝を切って深いステンレスの鍋に入れて水を注いで煮沸する。30分ほどすると、液は茶色くなって、いかにも色素が抽出できたように見える。その液を一度取り出し、また新たに水を加えて二番目の液をとる。
クルミに限らずすべての草樹にはタンニン酸が含まれていて、植物の防菌作用を促しているのだが、団栗、矢車 (やしゃ)、椎の実など、タンニン酸を多く含む実は、古代よりすぐれた染料として扱われてきた。
いまから5500年〜4000年前の縄文時代の集落跡としては日本最大級といわれる青森市三内丸山 (さんないまるやま) 遺跡がある。この遺跡からオニグルミの実と、その実を入れて運んだと考えられる網籠(縄文ポシェット)が出土している。網籠は縦が13センチほどで、木の皮を細く裂いて編んでいる。網籠に彩色がほどこされたとは思えないが、黒に近いほどの焦茶色になっているのが印象的であった。
おそらくクルミの実を拾った私の手に茶色の液がついたように、採集した実を入れている間にその液が籠について自然と染まっていったのではないだろうか。
クルミの実には脂肪分が多く含まれていて、縄文時代の人々の重要な食用植物であったのである。
しかし、縄文の人々がクルミや団栗を使って染色をしていたかというと、私はその可能性は薄いように思う。
なぜなら当時、絹は日本に渡来してなかったし、麻や楮 (こうぞ) の樹皮から細い糸を紡いで機 (はた) にかけて一枚の布を織りあげるということも、まだおこなわれていなかったからである。
日本人が機を考案し織物をするようになったのは縄文時代の終わりから弥生時代の初めにかけてというのが通説である。
だが、弥生時代の中ごろをすぎたころには麻を植え、桑木を育てて蚕を飼い、絹を生産しはじめていたことが、『魏志倭人伝』の邪馬台国の記述でも裏づけられている。
ところで、この夏の暑さで仕事も少し停滞気味であった9月下旬に、私たち染屋を刺激するようなニュースが飛びこんできた。
それは奈良県桜井市三輪山の北西の麓にある纏向 (まきむく) 遺跡の三世紀前半の溝跡にたまった土から、大量の紅花の花粉が発見されたのである。これまでは紅花の渡来は5〜6世紀とされていた。今回纏向遺跡より、自然ではありえないほどの量が発見されたことにより、紅花を染める工房がここにあったと考えられるわけで、これまでの定説を2、300年も遡ることになる。
かねてより纏向遺跡辺りは、邪馬台国の有力候補地とされていたため、マスコミの報道は、女王卑弥呼が紅花で化粧をし、紅花で染めた衣裳を着ていたのでは、というものであった。
私は『魏志倭人伝』の記述と若干矛盾するところもあるので、もう少し熟考しなければならないと考えている。だが、紅花の栽培と染色技術の源流は古代エジプトで、それがシルクロードを東漸して中国、日本へと伝わった。植物染を専らとするものとして、その報道は古の色の道を考えるうえでは刺激的で、夏の暑さをのこしただるい身体に針を打たれたような気持ちになったのである
『よしおか工房に学ぶ はじめての植物染め』
吉岡幸雄・染司よしおか 監修 (紫紅社刊)
生くるみを使った型摺りが紹介されています。