朱色(しゅいろ)

「正倉院裂と飛鳥天平の染織」(紫紅社刊)

「正倉院裂と飛鳥天平の染織」(紫紅社刊)

秋の正倉院展が近づいてきて、胸がときめいている。というのも私の染織の仕事のお手本が飛鳥・天平の遺宝であり、それらをじかに見ることができる喜びがあるからだ。

正倉院に遺された色彩と形は、現代の美とデザインをはるかに超えている。発掘品でなく、地上に伝えられた奇跡の宝物は、鮮烈な色を充分に遺して、平城京の都大路や七大寺の建造物を彩っていた朱や弁柄、さらには緑青の緑を想起させる。その華麗な色をしのぶには、たとえば、奈良西の京・薬師寺に行かれるといい。

薬師寺は近年、往時の白鳳伽藍が歴代の管主のご努力によりほぼ完成し、金堂、西塔、中門、回廊などが再建された。

朱色の柱や木組、緑色の格子、真白な壁、そして金色の鴟尾 (しび) と、まことに流麗な色が青空のもとに輝いている。それを華やかすぎる色合いと思うのは現代人の勝手な侘 (わび)・寂 (さび) に偏重した感覚で、七、八世紀の人々にとっては、それらは畏敬する色彩であったのだ。ことに朱色は赤系のなかでも代表的な色で、陽の色、火の色、血の色、すなわち生命の源の色なのである。

朱は縄文の時代より使われてきた。土中深く水銀と硫黄が化合すると鮮やかな赤になる。それを採掘して顔料にしたのだ。この朱の現物が今回の正倉院展にも出展されている。

薬師寺の白鳳期の古色な東塔と昭和56年に再建された西塔の色彩を対照してご覧になると、いにしえの人々に崇敬された朱色本来の色の強さがわかろうというものである。

日本の色辞典朱色の色標本と詳しい解説は
日本の色辞典』をご覧ください。
吉岡幸雄・著 (紫紅社刊)

*「正倉院裂と飛鳥天平の染織」松本包夫著 (紫紅社刊)

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稲藁を燃やす

稲藁を燃やす

稲藁を燃やす

秋冷の季節になって、朝晩は襟元や足先がだいぶひんやりしてきた。

もう工房では冬の支度にかかっていて、まず稲藁が運び込まれている。最近の農家では、稲をコンバインで刈り取って、すぐに細かく刻んで田に撒いてしまうので、むかしふうに、架稲に干して天日で乾燥させてから収穫する農家の方にとくに頼んで、稲藁を確保している。

工房の庭先の竹林に囲まれた場所に、高さ約1メートルのカマドが設えてあって、毎朝、その「貴重」な稲藁を燃やす。白い煙が竹の間から漂ってきて、玄関先を掃く弟子たちを包む。私の書斎にもそのちょっと懐しいような匂いが流れてくる。毎年くりかえされる、晩秋の朝の光景だ。

この稲藁の黒灰づくりは、寒の紅花染に欠かせない前奏曲のようなものである。

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蓼藍の花

蓼藍の花

蓼藍の花

今年の異常気象は、九月に入って少しやわらいできたように思っていた。ところが、蓼藍の二番葉を刈る頃、つまり九月十五日をすぎる頃より、もう花が咲いてきてしまった。

例年なら、九月の末頃、三番葉が出てきて、それからコンペイ糖のような小さい赤い花が咲くのであるが、今年は冷夏だと思って少し油断したのがいけなかったかもしれないが……

それでも、山田ファームの方々の御努力によって、一番葉がとてもよく芽がなり、貯蔵出来たので喜んでいる次第である。

この秋からは、自家製の藍を多く使って、澄んだ藍色を目指していきたいと考えている。

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吉岡版思うままに「客人を迎える空間」

京都の街を歩いていて、最近建てられたばかりの家を見ていると、玄関というか、家の入り口にあたる大部分が車のためのガレージで占められていることに気づく。昔なら、門があり、前庭を抜けて玄関へ、というのが定型であったようだが、いまはそこそこの大邸宅でも、中央にシャッターつきの厳しい感じのする車庫がある。

街を散歩していて、その大小にかかわらず、家の正面には車が停まり、意匠的にも美しいとは思えない車庫があるとすれば、眼を背けたくなるのは私だけだろうか。

門とか玄関というものは、客人を迎える空間であるから、心地よい空気が流れているようにいつも心がけておくのが当たり前だと教えられてきた。

私の亡き母は、毎朝、お弟子さんたちがやってくると、「かどを掃きや」といい、玄関からの先の道を掃き、水をまくことをまず一番の仕事にしていた。洛南の長屋のような小さい家であるが、昔から住んでいる人たちは、それぞれに表構えを整え、共同空間である道を美しく保つことを、誰とはなく心がけていたのである。

街並み保存とか、景観保全ということばをよく聞かされるようになったが、私からみれば、京都の街の姿は年々醜くなっている。

個人の家に限らず、新しく建つ大きなビルやマンションも同様である。車が入るところは大きく開いており、歩いてきた人は入り口を探すのに苦労するようなところもある。

神社や古寺にも貸しガレージがあり、入り口の近くや塀のまわりに車が並び、訪れる人はまず色とりどりの車を見て、その間の細い道を通ってお参りすることが多い。

自分たちの便利さだけを考えて、他人がそれをどう感じるかということはまったく念頭にないのである。

京都へは年間何千万という観光客が訪れるという。そういう人たちは、何かしら、古都への想いを抱いているはずである。祇園や上賀茂神社の社家の一角、大原や嵯峨野といった特定の場所だけでない。街なかの、ちょっと入った路地や図子も歩いているはずである。その人たちに、このあたりは美しい佇まいでしょう、と自慢できるようなところはほとんどないといってよい。

かつての京都はそうではなかった。意識をもって自分たちの通り、家並みをいつも美しく整えていたのである。それは、桃山時代の終わりに京の街を訪れたポルトガルの宣教師、ジョアン・ロドリーゲスの次のような記録にもあらわれている。

都という都市にはきわめて広い道路がついていて、
この上なく清浄である。
その中央を流れる小川と、泉のすばらしい水が全市に及んでいて、
道路は二度清掃し水を撒く。
従って道路は大変きれいで快適である。
人々は各自の家の前を手入れし、かつ、
地面に傾斜があるので、泥土はなく、雨の降った場合にもすぐ乾く。

私は、四百年前のこのような京の街を想い浮かべながら、この稿を書いている。

(2003年9月12日発行の京都新聞・夕刊「現代のことば」より)

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夕顔の色

夕顔の花

夕顔の花

奈良の知人の邸へ、夕顔の花が咲くのを見にいったことがある。まだ立秋まではひと月ほどある七月の上旬のことだった。陽が傾いて夕顔の花が咲くのを待っていた。

暑さのなかで、しおれていた花が、少し涼やかな風が吹くようになると、緑の葉を背景にして、五つに裂けた花びらが開いていく。その縁回りは絹の縮緬の生地のように見えた。中央には黄色の花芯を小さく結んで、印象的だった。

花の命は短くて、やがて干瓢に似た実を結んでいく。

夕顔で誰もが想うのは、源氏物語の一章である。光源氏が恩人である大弐乳母(だいにのめのと)を見舞った折りに、その家の隣に夕顔の花が咲いているのを見つける。

一輪の花をもらってくるように随身を遣わしたところ、童が出てきて扇の上にその夕顔の花を置いてわたす。

見舞いを終えたあと、光源氏がその扇を見ると歌がかかれてあった。

これを機に、光源氏と夕顔との逢瀬がはじまるのである。だが、紫式部が「花の名は人めきて……」と記しているように、その美しい人は夕顔の花のように命は短く、亡くなってしまう。

夕顔の花に見立てた襲は、古い文献には見られないのだが、花を白い生絹(すずし)に、その上に花芯の黄色を、刈安で染めたものを置いてみた。夏から秋に穂をのばす伊吹山の刈安に想いをはせた、私流の襲の色である。

吉岡幸雄著『源氏物語の色辞典』「夕顔」より

吉岡幸雄著『源氏物語の色辞典』「夕顔」より



源氏物語の色辞典夕顔の襲と扇・砧・紙燭について詳しくは
源氏物語の色辞典』をご覧ください。
吉岡幸雄・著 (紫紅社刊)

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